病院の歴史
昭和37年~昭和39年(1962~1964)地域医療の理想を求めて
刈谷豊田総合病院の礎、古居医院と豊田病院
当院初代病院長の古居亮治郎は、昭和10年、刈谷町字東陽町(現:刈谷市東陽町)に外科医院を開業、地域医療の理想を求め邁進していた。しかし、昭和16年に太平洋戦争が勃発すると医療物資にも困窮することになった。古居が抱いていた「アメリカで最も優れた総合病院の一つといわれるメーヨークリニックに負けない病院をつくりたい」という夢もついえるかに思われた。
苦学して成長し、のちに豊田会初代理事長となる豊田自動織機製作所社長(当時)の石田退三は、かねてより社会貢献に関心を寄せていた。特に医療分野での貢献は大きく期待されるところであった。「経済の復興を待って私の望むような病院にしてほしい」という古居の夢を託されて、古居医院を譲り受けた。古居の理想とする地域医療への思いと石田の地域社会への貢献の思いが共鳴したのだった。昭和18年、こうして古居は新装の豊田病院の病院長に就任、診療活動に励むうち終戦を迎えた。
医療法人豊田会の設立
戦後復興とともに自動車関連産業は大いに躍進し、刈谷市の人口の増加とともに総合病院の開設を市民は希求していた。昭和37年3月7日医療法人豊田会創立総会にて、刈谷市と豊田系7社(豊田自動織機製作所〈現:豊田自動織機〉、日本電装〈現:デンソー〉、トヨタ車体、愛知工業〈現:アイシン精機〉、豊田工機〈現:ジェイテクト〉、民成紡績〈現:トヨタ紡織〉、愛知製鋼)および7社健康保険組合による医療法人豊田会の設立が承認され、初代理事長には石田退三が就任した。
創立総会「事業計画書」より
現在当刈谷市を中心とした近郊には総合病院的な医療機関がないので豊田系七社の従業員並びに家族及び一般市民よりも数年前から総合病院設置の要請が高まり、各種団体間においてもいろいろと検討されていた次第である。
このときに当り、刈谷市在中の豊田系七社においては総合病院の設置を痛感しここに新設の意を固めた次第である。
又豊田系七社に属する各健康保険組合においてもこの趣旨に賛同し、監督官庁の許可を受けて病棟を造り、これを全面的に委託経営することとし、又刈谷市役所も議会の決議を経て5,400坪の土地を無償貸与するという三者合体の総合病院建設が決定したのである。
この病院は、一般市民並びに会社従業員及び家族その他近郊の国民全般に亘り利用できる公共性を持った全科病院とし、拡く一般国民の保全に、また社会のためにもいささかなりとも貢献し得ればと存じ病院及び准看護婦養成所の建設経営に踏切った次第である。
以上の性格からみて開設者を法人とし、医療法人豊田会の事業とした。
(原文のまま)
当時の刈谷市の医療事情「刈谷市史」「刈谷市議会史」より
刈谷市には昭和31年に開設した市立診療所があったが、工業都市としての爆発的な人口増加もあり、工場でのけがや一般家庭の病人を完全に収容するだけの病院設備がなく、市外での受診を余儀なくされていた。
昭和34年の秋、トヨタグループ各企業の出資による総合病院の建設を計画していた石田退三は、医療法人の設立を進めるとともに、刈谷市に病院建設のための土地の無償提供を求めた。刈谷市は、市民病院の性格をもつ総合病院であるとして、議会と協議のうえ土地の提供を決めた。昭和35年6月の刈谷地方労働組合協議会議長名で「市民病院建設促進に関する請願」が出されるなど、進歩する医療技術を取り入れた近代的な総合病院の建設が待たれていた。
市当局としても、病院の必要性を認識していたが、莫大な予算を要することであり、当時の市の財政力では市民病院の建設の具体化は難しいことであった。
そのような中でも、市は伝染病患者を収容する市立刈谷病院を廃止、旧隔離病舎があった大字元刈谷(現:刈谷市住吉町)の粕根地内の土地を拡張して刈谷豊田病院と伝染病隔離病舎を建設することとし、一帯の1万5,000m²の用地取得に乗り出した。住民福祉に不可欠な施設であるとの説得に多くの地主が理解を示し、土地買収はスムーズに進んだ。敷地の無償貸与ということで市長が医療法人豊田会の理事に就任した。
なお、刈谷豊田病院の開院とともに伝染病隔離病舎も開設された。その後、昭和39年3月制定の「刈谷市伝染病隔離病舎条例」により隔離病舎に収容した患者の診療は、刈谷豊田病院に委託された。のち市議会議長も医療法人の理事に加わるなど刈谷市と刈谷豊田病院は密接な関係を有することとなった。
刈谷豊田病院開院
石田退三を理事長とする医療法人豊田会は、早速に刈谷豊田病院の建設に着手、昭和38年3月1日、72歳の古居亮治郎を病院長として刈谷豊田病院が開院した。地下1階地上5階建ての鉄筋コンクリート造り、診療科目は内科・外科などの10科、病床数200床、職員148人、最新式の医療器具を用いて診療や治療にあたり、1日の平均外来患者数400人と、当時においては斬新な病院として高い評価を得た。
刈谷豊田病院は、近代的な病院をつくり地域医療に尽くしたいという情熱を傾けた古居病院長の思いと、「この病院を通じ、市民の皆様並びに一般社会のために、わずかなりとも貢献できれば誠に幸甚と存ずる所であります」(「病院だより」第1号)という石田理事長の思いを実現させたものである。病院の理念は「社会貢献」と「患者第一主義」。「常に患者の皆さまにとって良い医療とは何かという視点に立ち、快適な療養環境の整備と高度医療機器の積極的導入、スタッフの充実により、安全で質の高い医療サービスの提供」に努めることになる。なお、翌年には病床数が258床に増床された。
豊田准看護婦学院開設
刈谷豊田病院が開院して1カ月後の昭和38年4月、医療法人豊田会によって豊田准看護婦学院が開設された。学院長は古居亮治郎、1日に開校式、5日に入学式が行われ、初年度生22人が入学した。入学資格は中学校卒業以上、修業年限は2年であった。また、校舎は旧2棟地下1階の洗濯室西側にあった。
刈谷豊田病院の理念を実現する准看護婦(現:准看護師)を養成する機関として、病院医師はじめ関係者の協力の下、理想を掲げてスタートを切った。
古居亮治郎初代病院長の終生変わらぬ思い
古居亮治郎初代病院長は職を辞したのちも名誉顧問として、老人の無料医療を行い、財産を処分して刈谷市の福祉事業に寄付するなど、常に地域のことを念頭に社会貢献に情熱を傾けた。昭和58年8月12日、92年間の生涯を地域医療に尽くした名誉顧問の教えは当院の根幹を成すものとして脈々と受け継がれている。
昭和39年に日本病院協会欧米視察団の一員として海外出張したが、その際の記念植樹の手植えの松は、今も名誉顧問を偲ぶよすがとなっており、日々病院を見守っている。
昭和40年~昭和63年 (1965~1988)総合病院として地域医療の中心に
総合病院への承認と理事長・病院長交代
刈谷豊田病院は開院以来、地域住民の期待を担い、経営は順調であった。258床の病床と10科の診療科があり、当時の医療法による総合病院としての機能を有していたことで、昭和41年愛知県知事より総合病院の認可を受けた。これにより、診療報酬明細書が診療科ごとに作成されることになった。なお、平成8年の医療法改正により総合病院の規定は廃止された。
昭和41年1月5日、石田退三理事長に代わり医療法人豊田会第2代理事長として大島鈴松が就任した。大島は初代の意を継いで豊田会の運営にあたった。同年12月25日には77歳となった古居亮治郎病院長が退任、翌日大野道夫が第2代病院長に就任した。昭和43年5月11日、大島理事長の退任を受けて初代理事長の石田が第3代理事長に就任した。石田理事長は昭和54年7月23日まで務め、第4代理事長には白井武明が就任、同年10月1日には大野病院長に代わり第3代病院長として小谷彦藏が就任した。
院内設備の充実と刈谷総合病院への名称変更
昭和44年4月に東病棟(旧1棟)を開棟し、一般病床数は320床になった。以降昭和46年に東病棟(旧1棟)を増床し人工腎透析室が移設され375床に、昭和55年にも東病棟(旧1棟)を増床し436床、昭和56年にはCCU、CT、血管造影撮影室など最新の設備を誇る3棟が開棟され518床に、昭和58年には伝染病床30床を増やし、病床数561床の規模となった。昭和55年には広域第二次救急病院に指定されている。こうした増床に伴い医療スタッフも充実がはかられた。昭和58年1月には刈谷総合病院と名称を変更、名実ともに地域医療の中心として機能することになった。
昭和45年からは職員間の意思の疎通をはかり、情報を共有する手段としてB5判4ページの「病院だより」を発刊した。これによると囲碁や野球部などの互助会クラブの活動、スポーツ大会や慰安旅行など、職員の福利厚生面の充実が窺える。のちに「病院だより」はA4判でカラーページも配した季刊誌になり、多いときは36ページ立てとなった。平成14年の113号からは「SEASON」とタイトルを変更、号を重ねて平成26年4月には第161号を刊行している。
病院規模が大きくなるに伴い、医療の高度化と専門性に優れた知識や技量、経験をもつ医師の在籍が多くなった。これにより刈谷総合病院は徐々に各学会の認定施設となっていった。昭和58年の整形外科学会をはじめとして眼科学会、消化器内視鏡学会、小児科学会、泌尿器科学会、麻酔学会、耳鼻咽喉科学会、消化器病学会、脳神経外科学会などである。医療の専門性をさらに究め研鑽が積まれることになった。看護の面では昭和63年に基準看護に特三類看護(2対1:患者2人に対して看護職員1人が雇用されている)の承認を1棟3階と2棟3階で得、より良い看護の提供が認められた。
昭和58年2月には第1回院内研究発表会が開催された。診療科以外の部署からも発表があり、問題意識と成果の共有がはかられた。
また、新しい手技や機器の導入により、提供する医療サービスが一段と充実した。昭和59年には高気圧酸素治療を開始、昭和61年には放射線治療装置の使用が認可、翌年、在宅酸素療法指導管理が承認され、平成元年には体外衝撃波腎尿管結石破砕施設の使用が許可された。
院内保育園「こばと保育園」開設
昭和47年8月には院内で働く職員の子どもを保育するこばと保育園が病棟の一室に開園、2人の保母を配し4人の子どもたちが入園した。0歳児から就学するまでの子どもが対象であり、仕事と子育てが両立できると利用者に好評であった。翌年には独立した園舎が完成、保育環境が整えられた。
昭和58年4月、3棟の病棟増設に伴い、住吉町に土地を借用して園舎(敷地面積956m²、建物面積359m²)を新築、園庭に遊具も設置し年間行事も充実させた。昭和63年には保母12人、園児44人であった。保護者が安心して子どもを預けて働ける環境にあるとして、院内保育園の存在は優秀な職員の雇用に貢献している。子どもたちものびのびと集団生活を楽しみ、成長している。
看護婦養成施策の充実
昭和55年4月、豊田准看護婦学院は豊田准看護学院に名称を変更した。昭和58年には私立専修学校の認可を受け、各種学校から医療高等課程准看護学科の刈谷准看護高等専修学校となった。中学校卒業者を対象に修業年限は2年、卒業と同時に国家試験の受験資格が与えられる。第1回入学式は4月4日に行われ、34人が入学した。
専修学校は実践的な職業教育、専門的な技術教育を行う教育機関である。発足当時は専任教職員4人(昭和60年より5人)、兼任講師45人(昭和60年より80人)の体制であった。医師や看護婦の指導で専門科目を、教養科目として英語・国語・数学・社会・体育を学んだ。入学式、戴帽式、夏期鍛錬や研修旅行、球技大会などが開催され、学生たちは学校生活を楽しみつつ勉学に励んだ。
コンピューターの導入
1970年代にコンピューターが登場して以来、IT(情報技術)の進展は目覚ましく、事務作業のOA(オフィス・オートメーション)化が進められた。
刈谷総合病院では昭和58年4月、コンピューターシステム導入のためEPD準備室を設置した。翌年1月にコンピューターによる外来の医事業務が本格稼働、同年4月からは病棟医事業務もコンピューターで処理することになった。昭和60年から薬品在庫管理、用度業務、ファクシミリやワードプロセッサの導入、昭和62年には職員給与計算事務の電算化、固定資産のシステム運用を開始、部門別原価計算、病歴や薬剤、給食管理システムの開発を手がけるまでになった。こうした取り組みが後のIT化推進の基礎となった。
平成元年~平成14年 (1989~2002)保健・医療・福祉分野の充実
病棟増設と健診センター開設
第一次整備計画により3棟の増設と診療棟の改修を終え、平成元年12月には第二次整備計画に基づく5棟と6棟が竣工した。同月12日には竣工式と披露パーティーが開催され、新棟の完成を祝った。また、刈谷市伝染病棟の12床も開設した。
5棟は駐車場、伝染病棟、人工腎臓科、内視鏡室を備え、それぞれ最先端の機器を導入した。6棟には駐車場、健診センター、病棟、医局、図書室、病院長室、副院長室、事務部があり、地下1階にMRI(磁気共鳴画像装置)を設置した。
健診センターは翌年1月より業務を開始した。MRIほかCT、胃透視、肺機能検査、マンモグラフィーなどの検査機器を備え、人間ドックとして機能し、生活習慣の見直しをはかるなど保健指導も受けられた。異常が発見されれば当院での二次検査や治療が迅速に行える仕組みとなっていた。早期発見、早期治療により患者本人や家族の負担を軽減するだけでなく、膨張し続ける医療費の抑制にもつながる。そのためにも健康に対する地域への啓蒙が欠かせないとして、平成5年より専門医を講師に定期的な健康セミナーを開催している。
平成6年4月の2棟の増床と翌年の3棟の増床により一般病床は629床となった。平成8年には循環器センターを開設した。平成9年には年々増加する来院者のために立体駐車場を建築した。平成11年から4年にわたる病院増改築で、診療棟が拡張整備された。
開院30周年記念行事の開催と理事長・病院長の交代
平成5年10月18日〜23日の1週間、開院30周年記念行事を3棟の会議室などで行った。30年の歩みの写真展をはじめ医療相談、介護用品の展示、講演会など多彩な催しを開催、時には200人を超える地域住民が訪れ、地域と病院との絆を強めた。翌年3月には『刈谷総合病院三十年誌』を発行した。
平成6年5月30日、第4代理事長白井武明のあとを受けて、第5代理事長に豊田芳年が就任した。当時豊田は豊田自動織機製作所の社長を務めていたが、その手腕を豊田会でも発揮することになる。平成5年6月30日に第3代病院長の小谷彦藏が退任、7月1日付で第4代病院長に鈴木貞輔が就任、「全員参加の病院運営」を掲げ、病院運営にあたった。
平成9年5月1日付で第5代病院長に川島吉良が就任、「信頼される一流の病院」を目指していたが同年12月3日に逝去、病院長代行に宇佐見詞津夫が就いた。翌年6月1日付で第6代病院長に粟屋忍が就任、救急から在宅介護まで地域の要望に応える医療を推進した。平成14年6月1日には第7代病院長となる小林正が就任したが、翌月8日に急逝。直ちに鈴木克昌が病院長代行を経て同年12月1日付で第8代病院長に就任、「真に誠意をもった対応」を呼びかけた。
刈谷看護専門学校開校
看護の分野でもより専門的な知識が求められるようになり、看護婦養成機関においてもより高度な教育が必要となっていた。地域医療の担い手として刈谷市や刈谷医師会とも検討を重ね、看護専門学校の設立を決定した。
刈谷総合病院看護部では臨床指導者の育成と専任教員の養成を進め、看護婦養成所指定申請書を厚生省(現:厚生労働省)に申請した。厚生省の実地調査等を経て指定が決定、愛知県知事の設置認可を得て、平成4年4月、刈谷看護専門学校が開校した。校長は刈谷総合病院院長の小谷彦藏が兼任し、副学長、教育部長のほかに専任教員7人を配置、高校卒業以上を対象とした全日制の3年課程であった。これに先立ち刈谷市から無償貸与された土地(刈谷市半城土町)に4階建ての校舎を新築、3月25日には竣工式が行われ、刈谷准看護高等専修学校も同地に移転した。
4月8日、39人の入学生を迎えて第1回入学式が行われた。カリキュラムの専門的知識や技術の習得だけでなく、豊かな人間性をもった看護婦の養成が期待された。
訪問看護部門・在宅介護支援部門の強化
平成7年10月、訪問看護室を発展的に解消し、当院の敷地内に刈谷訪問看護ステーションが新たに発足した。自宅で過ごしたいという患者の希望に応えたものである。専門職が訪問し、健康状態の観察、日常生活の介助、入浴・排泄の介助、栄養指導やリハビリテーション、ターミナルケアなど、現在も24時間連絡体制で在宅療養の患者を支援している。発足当時、スタッフは4人であった。
また、平成8年4月、当院の診療棟1階に刈谷在宅介護支援センターが開設された。自宅で暮らす高齢者などの要介護者と介護している人の支援業務を担っている。高齢化社会を見据え平成12年に施行された介護保険法に沿う施策として、介護認定で要支援と認定された人が利用できるサービスを行っている。
また、医療法人豊田会は刈谷地区での医療福祉に貢献することを目的に、平成11年1月、100床を有する老人保健施設ハビリス 一ツ木を開設した。老人保健施設として療養高齢者の家庭復帰を支援している。同年12月には居宅介護支援事業者の指定許可が下り、刈谷在宅介護支援センターと一ツ木在宅介護支援センターが該当施設となった。
この施設は、平成9年9月に刈谷市一ツ木町において地鎮祭が行われ、1年半をかけた建築工事が始まった。鉄筋コンクリート造り5階建て、延べ床面積は7,266m²、個室・2人室・4人室の病室計41室と食堂、リハビリテーションを行う機能訓練スペース、ボランティア室、研修室、在宅介護支援コーナーを設けた。一人当たりのベッド専有面積11.5m²は、ゆったりとしており、国内でも屈指の広さである。医師1人、看護・介護職員37人、リハビリスタッフ2人(うち1人は兼務)、相談員3人、その他5人(事務4人、薬剤師1人)でのスタートであった。
平成12年4月に介護保険法の施行を受けて、老人保健施設ハビリス 一ツ木は介護老人保健施設ハビリス 一ツ木と名称を変更した。
病院ボランティアゆうあいの会発足
平成7年1月、刈谷社会福祉協議会の協力を得て当院でのボランティア活動を行う「ゆうあいの会」が発足した。揃いのピンクのエプロンがトレードマーク。病院ボランティア委員会と連携して患者案内などの活動をする。具体的には車椅子の介助、初診の申し込み案内と手伝い、各科の案内など、戸惑う来院者へのサポートを行う。病院業務がスムーズになって、来院者にはもちろんボランティア自身も社会に役立っているという生きがいを得られ、好評である。
ISO認証取得
ISOとは世界共通の規格や標準を定める国際規格であり、ISO9001は品質管理、ISO14001は環境に関する規格である。当院のクオリティー向上と体質の改善をはかるために健診センターと病院全体での取得を目指し、平成10年9月1日にISO推進室を設置、ISOへの取り組みを推進した。
健診センターの品質管理に関する認証については5S(整理・整頓・清掃・清潔・躾)活動、環境側面調査のためのPFD(プロセスフロー図)シートの作成など、互いに認証への理解を深める活動を着実にこなしていった。6月の予備審査を受け8月の本審査に臨み、平成11年8月27日、ISO9001の認証を取得した。
ISO14001については、各部署単位での活動を基盤として環境マネジメントの策定と展開、統括環境管理責任者による部門間調整などの努力により、平成12年2月2日から3日間の審査を経て4日に認証登録された。以後、医療機関として特徴ある環境活動を進め、平成13年2月には介護老人保健施設ハビリス 一ツ木、刈谷訪問看護ステーション、刈谷・一ツ木在宅介護支援センターにおいてISO14001の認証拡大が認定された。
日本医療機能評価機構による認定
平成10年6月、財団法人日本医療機能評価機構による病院機能評価の審査を受け、地域で安心・安全・信頼と納得の医療サービスを提供する水準を満たしているとして認定証が授与された。日本医療機能評価機構は中立的・科学的な第三者機関として医療の質の向上と信頼できる医療の確保に関する事業を行っている。
東診療所を経て東分院の開院
刈谷市東部地域における医療の充実をはかるため、平成9年4月1日、刈谷総合病院附属東診療所を開設した。川島吉良常勤顧問を所長に16人のスタッフで診療にあたった。
急速な高齢化の進展で高度化・複雑化する医療ニーズに応え、効率的・機能的な医療施策を展開するために療養型病床群を設置することとし、平成10年11月1日、東分院(療養型病床群)設立準備委員会が設置された。平成12年4月、100床の療養型病床を備えた刈谷総合病院東分院が開院した。慢性期医療を担い、長期入院を必要とする患者への安心な療養環境を提供する。急性期医療は刈谷総合病院、慢性期医療は東分院、家庭復帰に向けて良質なケアと生活リハビリテーションを行うハビリス 一ツ木、在宅医療は刈谷訪問看護ステーション・在宅介護支援センターがそれぞれ担当するという機能分担が確立した。こうした機能分担により高齢者医療の充実が実現した。東分院の開院に伴い刈谷総合病院附属東診療所は廃止された。
平成14年5月には東分院に50床の透析センターが開設された。
平成15年~平成25年 (2003~2013)急性期病院としての拡充「第二の発展期」
全国トップレベルの病院を目指す
豊田理事長の下、「全国トップレベルの病院」をスローガンに掲げ、急性期病院としての機能強化、病院力の強化とホスピタリティーの向上に職員一丸となって取り組み、10年で飛躍的成長を遂げた。
この間の設備投資金額は325億円、診療棟・新病棟(現1棟)・中央棟の建築や救命救急センターの拡充、高度な最先端医療機器の導入、IT投資を行い、大幅なアメニティーの向上、診療機能の充実がはかられた。また、職員の能力の向上では、専門の医療職を育成・確保するため継続的な活動が展開された。
診療実績は、平成15年度から平成24年度にかけて以下の通りの実績を上げた。
また、職員数は917人から1,429人と1.5倍の数となった。
こうした病院機能の充実が評価され、平成19年3月災害拠点病院、平成22年6月愛知県がん診療拠点病院、平成23年3月愛知DMAT指定医療機関、平成23年4月救命救急センターに指定、平成24年4月DPC対象病院(II群)の適用を受けた。
現在、急性期病院としての医療提供の環境が整い、方針に掲げた全国トップレベルの病院へ着実に前進している。
新診療棟開棟
平成11年より建設に着手していた新診療棟が、4年の歳月をかけ完成し、平成15年2月12日に開棟した。工事は建物を半分ずつ建てる方法がとられ、診療を止めることなく、仮設の診療科、薬剤科、医事室で運用し幾度の引越しを繰り返した。外来診療が混乱することもあったが患者の理解、職員の協力の下一丸となって新診療棟建築プロジェクトを成し遂げた。
完成した建物は、地下1階地上5階建て、延べ面積1万4,612m²、診療科は2階〜4階に配置され、地下1階は院内情報システムのコンピューター室、1階は正面玄関・ロビー・放射線治療室・医事カルテ庫、2階は医事室・薬剤科、3階は中央採血室、4階は図書室、5階は教育研修センターとして5つの会議室が設置された。
各診療科は診察室の増加、カンファレンス室・処置室などの拡充、採血・注射などの中央化、待合いスペースの確保など外来診療機能が大幅に改善された。また、1階医事カルテ庫に自動カルテ抽出機と各診療科への搬送システムが導入され、カルテが診療科に搬送される時間が大幅に短縮された。
5階の教育研修センターはこれまでの会議室不足が解消され、第1〜第3会議室までを開放した場合は、約300人収容でき、各種講演会や教育研修が積極的に行われるようになった。
電子カルテシステム稼働
平成15年11月、新診療棟の完成後間もなくして、現在の電子カルテシステムのベースとなるオーダリングシステムが稼働した。各診察室・病棟にパソコンが設置され、手書き伝票によるオーダは全てパソコンより入力することになった。また、臨床検査科・薬剤科・放射線技術科などの各部門システムも整備され、オーダ情報を基に効率よく処理されるようになった。これにより、業務処理効率が格段に向上し、診察終了後の会計・薬待ち時間が大幅に短縮され、患者サービス向上につながった。
そして平成18年1月、他の医療機関に先駆けて電子カルテシステムが導入された。既にオーダリングシステムが稼働していたこともあり、スムーズに電子カルテシステムへの移行を完了した。当院の電子カルテシステムは約40にわたるシステムを統合し、大学病院にも匹敵する大規模統合システムを構築した。電子カルテシステムを中核として、各種検査・画像診断・薬剤・手術・給食・ICU・診断書・分析などの医療情報の各システムが連動、メーカーの異なるシステムをシームレスに連結し、患者情報・診療記録・依頼情報・結果情報などの共有を円滑に行うことで、高度な医療情報の統合管理が可能となった。
ISO9001の認証拡大
平成11年に健診センターで取得したISO9001認証は、毎年のサーベイランス(監査)を受けて更新してきた。平成16年医療環境が年々大きく変化し、社会や患者の医療に対する要求が多様化・高度化する中、患者・地域から信頼される病院を目指し、ISO9001の病院全体への認証拡大が目標に掲げられ、病院で提供される全てのサービスに対する品質マネジメントシステムが構築された。
システム構築は品質環境管理委員会とISO推進室が中心となり、全職員の意識改革と病院業務の品質向上に取り組んできた。中でもプロセス管理表・規程・手順書・帳票の作成は膨大な時間を要し、各科・各部署は業務の合間を縫って取り組んだ。
そうした努力によって、平成18年2月、病院全体を対象とした認証を取得した。その後、医療法人豊田会全体での取得を目指し、各事業所への展開が始まった。平成20年3月には分院やその他の施設を含めた豊田会全体での認証取得を完了した。当院のサービス提供における品質マネジメントシステムが世界標準の規格の下で認められたことで、品質の維持・向上に一層の発展が期待された。
看護師養成学校の閉校
医療法人豊田会設立当初より准看護婦養成機関の運営を行ってきたが、平成6年10月保険医療の改正により看護婦比率を要件とした新看護体系が導入され、当院もこの比率を高めるため准看護婦の採用はしないこととなる。さらに平成14年度から准看護婦養成所のカリキュラムは授業時間が大幅増加となり専任教員・講師の確保の問題などから、平成15年3月末に刈谷准看護高等専修学校を閉校。
また、年々高度化する医療に対し、看護師養成の場は専門学校や短期大学から看護大学への移行が進展。当院においても、高度医療に対応する専門性をもつ看護師確保のため看護大学を中心とした採用活動により看護師確保にめどが立ち、平成20年3月末をもって刈谷看護専門学校を閉校した。
「刈谷豊田総合病院」へ名称変更
平成18年4月1日、急性期病院「刈谷総合病院」を「刈谷豊田総合病院」に、慢性期病院「刈谷総合病院東分院」を「刈谷豊田総合病院東分院」に名称変更した。名称変更は、医療法人豊田会の理念をより高次元で実践し、総合病院としてのさらなる発展を目指して行われ、新名称の採用にあたっては、医療法人豊田会の基本理念のもと、全職員のモチベーション向上と意思統一を強固とするため、その表明として法人名の「豊田」を冠し、「刈谷豊田総合病院」とした。
また、新名称に合わせ、VI(ビジュアル・アイデンティティー)を導入、病院名や「KTGH」ロゴなどが作成され、現在も愛用されている。
新病棟(1棟)開棟
平成16年6月に起工した新病棟は3年間の工事期間を終えて、平成19年11月、竣工した。地上12階建て、延べ床面積18,714m²、東海地震にも対処できるよう免震構造とした。1階には外来のリハビリテーション科と放射線検査室、2階以上は病棟であり、最上階には個室病棟を備える。新病棟の特徴は建物の中央に大きな三角形の光庭があり、2階から屋上まで大空に通じた吹き抜けの空間を作っている。周囲はガラス張りで、各階ともこの空間を囲むように病室が配置され、病室も旧病棟よりかなり広くなり、4人部屋にも部屋ごとにトイレ、洗面所が備えられた。さらに廊下側のベッドにも窓を配置し、自然の光を採り入れられるよう工夫され、療養環境が格段に向上した。また、良い病院をつくろうという職員の思いが随所に見られ、スタッフステーションに隣接した薬作業室、二つのトイレ、カンファレンス室などが新設され、働きやすい環境が整った。
1棟への引越しは入念な準備のうえ、11月9日から3日間を要して行われた。「患者の安全確保」を第一に全職員が一丸となって臨み、無事に終えることができた。
刈谷豊田総合病院高浜分院の開院
地方における昨今の医師不足は深刻さを増し、病院の存続をも脅かしていた。刈谷豊田総合病院の所在地に隣接する高浜市の市立病院も例外ではなく、病院事業の経営改革を進めてきたが民間への移譲が検討され、医療法人豊田会への病院移譲を合意し、高浜市は豊田会に参加することになった。平成21年4月1日に開院式が行われ、高浜市立病院は荻野武彦分院長のもと、常勤医師4人で刈谷豊田総合病院高浜分院として新たなスタートを切った。医師不足は本院からの代務で補い、必要な改修工事にも着手した。
高浜分院は東分院と同じく、医療型療養病床の病院として内科・外科・整形外科・眼科の4科を標榜する。ベッド数は104床、主に慢性期の患者を対象に、医療・介護サービスを提供することにより自立、家庭への復帰を支援する。6月からは健診業務を開始、地域住民の健康をサポートしている。
中央棟開棟
刈谷豊田総合病院の高度医療を中心とする地域医療の充実への取り組みが認められ、総務省の定住自立圏等民間投資促進交付金の対象事業として建設が進められていた中央棟は、平成23年2月に完成した。免震構造の5階建ての建物は、画像統合システムの導入で、大災害、大事故等の有事の際にも迅速な対応ができる管理体制を構築した。
1階は中央物流センター・新厨房・理容室・売店、2階は内視鏡センター・レストラン、3階は中央手術室(一般手術室4室)・画像統合管理室・中央材料室、4階は中央手術室(高機能手術室8室〈うち内視鏡外科手術室4室〉)であり、各室にはそれぞれ最先端の設備機器が導入された。また、内視鏡手術室では、光ファイバーネットワークを利用した音声・映像双方向性の遠隔手術支援など世界初となる最新技術を導入、患者さんに優しい安全でより精度の高い手術環境が整った。
当院への高い評価
「患者第一主義」を掲げ実践する当院は、平成15年6月30日付「日本経済新聞」に掲載された「病院ランキング」で全国18位、愛知県第1位を獲得、豊田会の理念が広く認知されたことと受け止め、さらなる医療の充実を誓った。平成23年の「週刊ダイヤモンド」では「都道府県別頼れる病院」ランキングで愛知県第2位の評価を得るなど、着実に評価を上げている。
救命救急センターに指定
増加し続ける救急診療に対応するため3棟の救急部の改修工事を行い、平成16年4月、工事が完了、救急・集中治療部が全体で3倍に拡大された。三つの処置室、診察室、リカバリー室、夜間病室などがゆとりをもって配され、外部仕様も一新された。
以降、「断らない救急」をモットーに麻酔科と救急・集中治療部を中核に全診療科参加型とし、広範な医療圏にもかかわらず、初期診療から高度集中治療まで迅速・適切な医療を提供している。こうした実績によって平成23年4月に愛知県から救命救急センターの指定を受けた。その後、救命救急センター(救命病棟・ICU)の拡張工事を二期にわたり実施、平成24年4月に26床となって全面稼働した。機器類の吊り下げ式配備により床面の配線をなくし、新たなモニター類や高性能機器の導入に十分なスペースと安全性に配慮した。また、薬剤準備室などに充てる業務スペースを確保し、作業効率を向上させた。設備とともに人材も充実し、多様な救急医療に取り組んでいる。
地域災害医療センター・地域中核災害医療センターに指定
阪神・淡路大震災での初期医療体制不備の反省から災害時における初期救急医療体制の充実強化をはかることを目的とし、地域災害医療センターの整備が進められ、DMAT(Disaster Medical Assistance Team:災害急性期に活動できる機動性をもったトレーニングを受けた医療チーム)も組織された。平成19年3月、刈谷豊田総合病院は愛知県の災害拠点病院(地域災害医療センター)に指定された。
平成23年3月11日、未曾有の東日本大震災が発生し、以前にまして地震をはじめとした災害医療への関心が高まっている。刈谷豊田総合病院は平成23年3月に愛知DMAT指定医療機関に指定された。東日本大震災の被災地へは、医師会の要請を受けJMATチームを編成して派遣した。同年4月には災害拠点病院(地域中核災害医療センター)に指定された。災害拠点病院では災害時における医療機関として機動的に機能しなければならない。当地は東海・東南海地震の発生が懸念されており、この責任を果たせるよう、年1回の総合防災訓練、年2回の防災訓練を実施するなどの取り組みを強化している。
地域医療ネットワーク(KTメディネット)稼働
平成24年3月、刈谷市・知立市・高浜市・東浦町において、圏域全体の安心感や利便性の向上をはかるために「衣浦定住自立圏共生ビジョン」が策定された。同ビジョンにおける主な取り組みの一つに医療健康では当院を中核とした地域医療ネットワークの構築が掲げられた。
これを受けて刈谷豊田総合病院と刈谷医師会は、地域医療連携による質の高い一貫した医療サービスの提供にはIT技術を活用した地域医療ネットワークシステムの運用が必要であると判断した。刈谷豊田総合病院の地域医療・総合相談センターの地域連携室が中心となってシステム構築が進められ、平成24年10月より稼働した。
地域医療ネットワークシステムは、刈谷豊田総合病院とかかりつけ医をネットワークで結び、地域完結型医療を支援する。診療情報である電子カルテ情報を、連系用サーバーを介して共有することである。紹介状・診療記録・検査データ・画像データの閲覧が可能となった。
平成25年3月には医療機関ごとの接続作業も終了し、このネットワークシステムを通じ、地域医療機関との絆がより強まり、地域医療連携の推進が加速した。
理想の医療を求めて
刈谷豊田総合病院は平成25年3月に創立50周年を迎えた。石田初代理事長、古居初代病院長の理想とする病院の姿を求め、10科200床から始まった病院経営は、豊田芳年理事長、井本病院長の体制のもと、三つの関連施設を含め1,121床を擁する。この50年間は真摯に患者さんと医療に向き合う年月であった。日進月歩の医療ではあるが、最先端技術を使いこなすのは、やはり人である。「患者さん第一」を職員全員が共通の理念として現場で反映させ実行することで理想が実現する。新2棟の槌音も新しい病院の未来を拓く応援歌である。これからも地域の中で期待に応えられる病院でありたい。
平成26年~令和4年 (2014~2022)地域医療を支える中核病院として飛躍
地域医療を支える中核病院として飛躍
2013年11月11日、第6代理事長に豊田鐵郎が就任し、豊田会は、新たな半世紀を踏み出した。
「地域医療を支える中核病院として飛躍する」をスローガンに、最先端の急性期医療に取り組むとともに、医師会や診療所との連携を強化して地域医療の質向上を推進してきた。具体的には、がん診療体制および周産期医療体制の整備、最新手術医療機器・検査機器の導入と、手術・検査機能の強化、地域の医療機関との連携強化、豊田会4施設の役割分担の再編成など、特徴を最大限に活かして急性期医療提供体制の構築を行った。
こうした病院機能の充実により、2015年12月に地域周産期医療センターの認定、2016年9月には地域医療支援病院の承認を受けた。
診療実績は、2014年度から2021年度にかけて以下の実績を挙げた。
新病棟(2棟)開棟
2013年1月に起工した新2棟が1年10ヵ月の工事を終えて、2014年10月に竣工した。新2棟は、地下1階、地上7階建て、延べ床面積12,762m²、セキュリティー機能や特別高圧電気設備も備え大地震にも強い免震構造とした。
地下1階は放射線エリアとして最新の放射線治療装置、高性能CT装置、MRI(3.0)などを導入し診療体制を強化した。1階2階は健診センターで男性と女性の健診エリアを分け、従来の1.5倍の受け入れを可能とするなど受診者のニーズに対応した。また災害時には被災者を受け入れられる設備を新設し、災害拠点病院(地域中核災害医療センター)の機能も充実させた。3階から7階は、個室病床とし快適な療養環境を整えた。特に7階は愛知県がん診療拠点病院としての機能強化のため20床の緩和ケア病棟を設け、がん治療の全病期に対応できる体制を整えた。
新2棟の開棟により地域の皆さまへ、予防医療から、救急医療、災害医療、がん治療など高度な医療を提供する地域の中核病院として、一層の機能の充実を果たした。
ドクターカー運用開始から10年目
救急医療の責務は、予期せず発生したけがや病気に対して、より早期に緊急治療を行い、1つでも多く命を救うことである。当院は救急隊の要請に応じて、救急現場で緊急治療を行うために医師や看護師を派遣する「ドクターカー」の運用を2014年1月から開始し、2023年は運用開始から10年目の節目の年となる。これまでに週2回の運行で500件以上出動し、その中には現場から救命処置を行ったことで救われた命もいくつかあった。2022年11月からは刈谷市スマートシティプロジェクトの一環として、出動チームが救急現場の様子を撮影した動画を院内へリアルタイムに転送し、当院搬送後の迅速かつ質の高い医療提供を可能とするシステムを取り入れ、ドクターカー事業の質向上に努めている。
市民公開講座開始
2014年4月、地域の皆さまに医療に関する理解を深めていただくことを趣旨に各診療科の医師やメディカルスタッフが身近な病気を解説する「市民公開講座」を開始した。
第1回は禁煙に関する講座で、初年度は12講座開催し、のべ約600人の方に参加していただいた。2020年1月からはコロナ禍で対面開催を控え「医療の知恵袋〜目で見る市民公開講座〜」と題してホームページで情報を提供している。
こばと保育園リニューアル
2014年9月1日、院内で働く職員の子どもを保育するために 1972年8月より開設している「こばと保育園」をリニューアルオープンした。
新保育園は室内・園庭ともに園児90人以上を保育できる十分なスペースを確保し、冷房・床暖房を完備するなど快適な保育環境を整えた。また、24時間保育サービスを開始し、職員の就労をさらに支援する環境を整えた。さらに、リフレッシュ預け入れ制度を導入し、職員が心身ともにリフレッシュする一助となっている。
地域周産期母子医療センターに認定
2015年12月1日、愛知県から「地域周産期母子医療センター」に認定された。愛知県には7つの「総合周産期母子医療センター」、13の「地域周産期医療センター」がある。「総合周産期母子医療センター」や「地域周産期母子医療センター」は各医療機関と互いに連携をとりながら、24時間365日、母体・胎児・新生児の治療体制を整え、自施設の分娩を取り扱うとともに、地域の分娩施設(産婦人科開業施設、助産所など)から危険の迫った妊婦や新生児の紹介や緊急搬送を受け入れている。
当院「地域周産期母子医療センター」の特徴は、新生児部門では、新生児集中治療室(NICU)3床と継続保育治療室(GCU)6床を有し、低出生体重児や新生児異常疾患に対して高度な医療が提供できることである。また、産科部門では緊急事態に対応できる手術室や集中治療室(ICU)、出産に伴う突発的な多量出血に対処できる放射線科、さまざまな合併症に対応できる多くの診療科、充実した検査部門などが整っており、地域において良質な周産期医療を提供できる体制を構築している。
災害拠点病院として地域医療を守る
当院は大規模災害時に行われる災害医療で中心的な役割を担う災害拠点病院に 2011年4月に指定された。この2011年は東日本大震災が発災した年であるが、それ以降においても大規模地震や風雨水害による被災が日本各地で頻発し、2016年に発災した熊本地震では当院もDMAT(災害派遣医療チーム)を派遣し、現地で医療支援を行っている。
当地域は近い将来に東海地震、南海トラフ地震が生じるといわれており、これらの災害が生じた際、地域の人々だけでなく当院および職員も被災することが想定される。災害拠点病院である当院は、被災時においても当地域の医療提供を継続する必要があり、そのためには平時における準備が不可欠となる。当院ではその準備として毎年総合防災訓練を行っているだけでなく、有事においても病院機能を維持・継続させるための計画(事業継続計画:BCP)を作成し、随時BCPシミュレーション訓練も行っている。病院機能を維持するために最も重要な「人」については、通信環境が制限された災害時にも活用できる「安否確認システム」を導入し、被災した職員と連絡を取る手段を確保している。また行政や医師会との合同防災訓練も定期的に実施しており、地域全体で災害時の医療を守るべく対策を講じている。
DMAT (災害派遣医療チーム) の派遣 (熊本地震)
2016年4月14日に熊本県を中心に震度7の地震が発生した。当院は、厚生労働省からのDMAT派遣要請を受けて2016年4 月18日より当院DMATを派遣した。
派遣されたチームは医師1名、看護師2名、臨床工学技士1名、事務員1名の計5名で構成され、4月18日に現地(熊本赤十字病院)入りして被災地における災害医療活動に従事した。当院DMATとしては、院外での初の活動となり、災害医療のノウハウを蓄積することができた。
※DMAT(災害派遣医療チーム)
大地震、航空機・列車事故といった災害・事故時に迅速に駆けつけ救急医療を行うための専門的な訓練を受けた医療チームのこと。基本構成員は医師1名、看護師2名、業務調整員1名の計4名とする。
がん総合診療センター開設
2008年4月に中央診療部の一部門として発足したがん診療支援室は、2010年6月に当院が愛知県がん診療拠点病院に指定されたことを契機に、より広く専門的ながん医療の提供をめざし2016年4月にがん総合診療センターとして独立した組織に改編された。
がん総合診療センターは、地域のがん医療に貢献するために以下の3つの分野を中心に活動してきた。
①がん薬物療法の充実
2016年10月、診療棟4階に計30床の化学療法センターをオープン。化学療法センターでは最新の治療環境の中で、専門性の高いスキルを持ったスタッフが責任をもって安全で安心な薬物療法の実施に取り組んでいる。2017年度には計4,700件であった外来化学療法件数は2021年度には計7,497件と大幅に増加し、2022年度はさらに増加する見込みである。
②緩和ケアの推進
2015年4月、2棟7階に計20床の緩和ケア病棟をオープン。通院患者さんには緩和ケア外来、がん治療中の入院患者さんには緩和ケアチーム、終末期の療養患者さんには緩和ケア病棟といった病期に合わせた治療体制を構築し、最適な緩和ケアを提供している。
③がん相談の拡充
がん相談支援センターでは専門の相談員(看護師や医療ソーシャルワーカー)が、がんの療養にかかわるさまざまな相談を受けている。また、ピアサポーター(がん治療体験者)によるがん相談会や社会保険労務士による就労支援相談会なども定期的に開催して、がん患者さんの治療や療養をサポートしている。
抗がん薬調製支援装置(ロボット)導入
2016年9月より、化学療法センターでは抗がん薬調製支援装置(ロボット)を導入している。このロボットは、双腕を有し、ヒトに近い動きをして、抗がん薬を処方どおりに抜き取り輸液に混合(調製)する工程を自動で正確に行うことができる。
自動で正確な調製に加え、抗がん薬の曝露の危険性が最も高い作業をロボットが行い、また抗がん薬の毒性を失活させるオゾン水で抗がん薬の入った輸液バックを洗浄することで、 抗がん薬調製者や投与を行う看護師、治療に同席するご家族への曝露も軽減できる。
ロボットに調製業務を代替させることで、薬剤師は患者さんと接する時間を増やすことができるようになった。現在、外来抗がん薬治療をしている全ての患者さんに認定薬剤師が薬剤指導を行っており、より専門性の高い薬剤指導が可能となっている。
当院への第3者評価
ISO15189 [全分野] 認定取得
臨床検査室認定とは、臨床検査室の技術能力を証明する手段の一つで、国際規格 ISO15189に基づき、臨床検査を行う能力を有していることを認定するものである。
2023年1月現在、全国で277もの施設が認定されているが、当院は2010 年11月に全国で59番目、愛知県下で2番目に部分認定取得し、2016年6月には5つの分野(検体検査2分野、健診、病理、生理)すべての認定を取得した。
検査結果の精確さが担保されることで、臨床検査室の役割とその信頼性が向上することや、さまざまな工程を繰り返し改善することで、医療安全に貢献できるといった認定取得によるメリットが維持されるよう、内部と外部の監査を継続的に受審している。
日本診療放射線技師会認定医療被ばく低減施設認定取得
LANCET論文による医療被ばくへの不信感の増加や福島原発事故以降のマスコミ報道などから、国民の被ばくに対する関心が高まり、医療放射線の正当化と最適化による被ばく低減が求められた。公益社団法人日本診療放射線技師会は「安心できる放射線診療」を国民の皆さまへ提供するための事業として医療被ばく低減施設認定を設定した。当院も放射線機器の線量測定、被ばく相談窓口の設置などの管理体制を整備し、2016年7月、愛知県下では比較的早期に医療被ばく低減施設の認定を取得した。その後の2020年4月に施行された医療法施行規則改定に伴う診療放射線に係る安全管理体制に関する規定につながるものとなっている。
地域医療支援病院の承認を受ける
地域包括ケアシステムが推進される中、地域の医療機関を支援し「地域完結型医療」を守る基幹病院として、2016年9月26日、愛知県知事より地域医療支援病院の承認を受けた。緊急度・重症度の高い患者や他の医療機関での治療が困難な患者の受け入れや、病院の高度医療機器や図書室、会議室などを地域の医療機関が利用できる体制の整備など、地域医療支援病院としての役割を担うべく、急性期医療のレベルアップをはかるとともに、日頃から地域医療機関と連携強化の活動を推進している。その中で、2012年10月より衣浦定住自立圏 共生ビジョンの取り組みとして稼働した地域医療ネットワークシステム(KTメディネット)も、2022年10月より衣浦定住自立圏以外の地域にも拡大し、現在237施設(2022年11月末日)と連携している。連携機関とはKTメディネットによるオンラインで結ばれ、紹介元からの検査・診察などの予約や、紹介患者を対象に「かかりつけ医」に当院の診療情報を提供している。また、「断らない救急」をモットーに、急性期治療の必要な患者を速やかに受け入れるなど、地域医療の後方支援を行っている。「つなぐ医療」から「支える医療」へ、地域医療支援病院として、患者さんを中心に地域の医療機関同士が情報交換を行い、疾患別の標準的な診療計画に従って、急性期〜回復期〜維持期まで患者さんに切れ目ない最善の連携医療を提供する地域完結型医療の推進に取り組んでいる。
高度な先端医療機器の導入
高精度放射線治療装置Radixactを導入
2018年7月、最新型の高精度放射線治療装置「TomoTherapyRadixact(トモセラピー ラディザクト)」を愛知県下では早期に導入した。照射野の形状や放射線強度を変えながら、多方向から照射することで病変の形状に合わせて照射を行う強度変調放射線治療(IMRT)を実施できる。IMRT の導入により、治療適応の拡大や治療成績の向上、副作用の低減により患者にやさしい放射線治療が可能となった。
デジタルPET-CT装置「Vereos」を導入
2020年4月、愛知県下では比較的早期にデジタルPET-CT装置「Vereos」(Philips)を導入した。フルデジタル半導体検出器搭載により、従来のアナログPET-CT装置と比較して約10mmであった検出限界が約5mmと大幅に改善され、微小な病変の描出能が飛躍的に向上した。さらに、検出器感度の向上により少ない放射能量でも十分に検査が行えるなど、被ばく量低減も期待でき、より安心・安全ながん診療に大きく貢献している。
高浜豊田病院新築移転 透析センター開設
高浜豊田病院は、2009年4月に高浜市から高浜市立病院の移譲を受けて病床数104床で開院した。
以降、健診センターや高浜訪問看護ステーションを設置し、地域に根差した病院をめざして歩みを進め、建物・設備などの老朽化を踏まえ、2019年7月に新築移転した。
これを機に、女性専用エリアを新設して高浜市総合検診や人間ドックを行う健診センターの拡充をはかった。また、透析ベッド30床と専門スタッフを配置して地域の慢性腎臓病患者さんに透析治療を提供するべく高浜市内初の透析医療施設を設置し、高浜市民の皆さまはもとより、西三河南部西医療圏の更なる医療の充実をはかるとともに、疾病の早期発見と予防を通じて健康な生活づくりを支援できる体制を整えた。
東分院・高浜分院の名称変更
2019年7月、慢性期病院「刈谷豊田総合病院東分院」を「刈谷豊田東病院」に、「刈谷豊田総合病院高浜分院」を「高浜豊田病院」に名称変更した。名称変更は、医療法人豊田会の理念に基づき、それぞれの地域において役割を確実に果たし、より地域の皆さまに親しまれ信頼される病院を目指して行われ、新名称の採用にあたっては、医療法人豊田会の基本理念のもと、全職員のモチベーション向上と意思統一を強固とするため、その表明として法人名の「豊田」を冠した。
コロナ禍における医療機能の保持
第二種感染症指定医療機関である当院は、地域の中核病院として、2020年2月より新型コロナウイルス感染症に積極的に対応してきた。2022年12月末現在、未だ終息せず、これまでに当院が受け入れた入院患者数は1,000人を超えた。地域医療支援病院として通常診療を維持する一方、流行期には専用病棟を稼働し、さらに流行極期には一般病棟の一部を適切に区分けして感染患者さんを受け入れてきた。感染状況を配慮しつつ、救急車や緊急度が高い患者さんの受け入れができない事態にならないよう、日々努めている。
また、院内感染をできるだけ早期に察知し拡大を防ぐため、感染の疑いがある患者さんや職員には積極的に検査をしている。検査能力を高めるため、PCR検査機器などを4台購入した。院内で陽性者が発生した場合は安全環境管理室感染管理グループが主となり全体を管理する。
外来では発熱患者専用の建物を設置し、これまでに7,900人を超える患者さんに対応。新型コロナワクチン接種においても、延べ 24,000人を超える地域住民に接種を行った。
今後も新型コロナウイルスが終息するまで、不断の努力を続け、地域医療に貢献していく。
「豊田会の未来へつなぐ」
超高齢化社会を迎える中で、働き方改革への対応、新型コロナウイルス終息後の医療体制、建物老朽化への対応など、対応すべき課題は山積している。
持続可能な医療提供のためには、病院経営の健全化が重要課題の一つである。地域中核病院として機能の充実を推進し、地域医療を支える人材の確保と、職員の主体性とチャレンジ精神を尊重した働きがいのある職場づくりと人材育成に努め、豊田会理念「社会貢献」、「患者第一主義」のもと、豊田会の歴史を誇りとして総力を結集し、各々の課題に積極的にチャレンジし、豊田会の未来へつないでいきたい。